休息

「・・・すみません、少し外します」

 カタン、と司令席から立ち上がると、そう短く告げてイーグルは艦橋を出て行った。
 今は戦闘配備中ですらなく、司令官であるイーグルが席を外したからといって問題がある訳ではなかったが、通り過ぎた時の彼の雰囲気に微かな違和感を感じて、ジェオはザズに後を任せると艦橋を出てイーグルを追った。
 別に何もないならいい。感じた違和感が気のせいなら、それに越したことはないと思う。
 しかし、セフィーロの不思議な力・・・人々の祈りによって多少回復したらしいとはいえ、イーグルの身体が今も病に蝕まれていることに変わりはないのだ。
 魔法騎士と導師クレフ以外はジェオしか知らない、彼の秘密。
 本当なら医務室に押し込んで、この一連の戦いに決着がつくまで休ませておきたい、というのがジェオの本音だった。
 何でもない顔をして、平然と無理を重ねていくあの司令官を、心配するなという方が無理な話なのである。

「イーグル、入るぞ」

 当たって欲しくはないが、もし予想通りなら居るのは自室だろうと、ドアの前で一応声をかける。
 センサーパネルに掌を押し付ければ、拒むことなく開いたドアがジェオを部屋に招き入れた。

 ───ケホッ、ゴホゴホ・・・ッ

 部屋の奥にある洗面所の辺りから、水の流れる音と激しく咳き込む声が聞こえて、ジェオは「やっぱりか」と内心で焦燥に舌打ちしながらそこへ駆け込んだ。

「イーグル!」

 開けっ放しにされた蛇口から勢いよく水が流れ、ざぁざぁと音を立てながら洗面台に渦を作っているが、本来の意図は果たされていない。
 口を押さえて床に蹲り、息もつけないほど咳き込んでいるイーグルの前には小さな血溜まりが出来ていて、少し離れた所に吸入器が落ちていた。

「ばかやろう、少しは人を頼れ」

 やりきれない思いでそう言い、吸入器を拾い上げると、目の前の薄い身体を抱き起こして背中をさすった。

「・・・ジェ、オ・・・?」

 かろうじて音になった声は、しかしすぐに再び咳へと変わる。

「いい、無理に喋るな。吸入は出来たのか」

 短く問うと、イーグルが小さく首を振った。どうやら使う前に取り落としていたらしい。

「吸えるか?」

 その言葉に、イーグルは何とか咳を堪えて口を押さえていた手を外すと、宛てがわれた吸入器に震える手を伸ばす。ジェオはしっかりとそれを支えた。
 かしゅ、と軽い音が一度、二度と響く。
 段々と咳が治まってくると、イーグルの手が力尽きたように彼の腿の上に落ちた。

「イーグル」
「・・・大丈夫、です。すみません・・・少し、このまま・・・」

 ジェオの胸に頭を預け、目を閉じて息を整えているイーグルが小さく答える。ジェオはその背中を撫でながら、彼の呼吸が落ち着くまで辛抱強く待った。

 ***

「イーグル、少し動かすぞ」
 落ち着いたのを見計らって、ジェオは支えていた身体をそのまま抱き上げると、すぐ横にある寝室に向かう。
 その意図に気付いたイーグルが艦橋に戻るなどと言い出したので、馬鹿を言うなと思わず切り捨てた。

「そんな顔色で何しようってんだ?大体いまは待機中なんだ、お前が寝てたって問題ないだろ」
「しかし・・・」
「いいから休める時に休んどけ。無理すんのは戦闘中だけでいい。俺としちゃそもそも戦闘に出したくないんだがな」

 苦虫を噛み潰したような顔でそう言いながら、イーグルをベッドに下ろすと、彼の世話役でもある副官は慣れた手つきでその装備を外してゆく。されるがままのイーグルは諦めたように小さく笑った。

「・・・ジェオは、本当にいい人ですね」
「おだてても何も出ねぇしベッドからも出さねぇぞ」

 あっという間に全ての装備を解除され、さっさと横になれと優しく枕に押し倒されたイーグルは、ありがとうございます、と大人しく目を閉じた。肩まで毛布が掛けられる。
 仮に健康な身体だったとしても、ここ連日の戦闘ではそれなりに疲労していただろう。今のイーグルには尚更だ。正直に言えば、そろそろ限界だった。

「何かあったら起こすから、それまで寝てろよ」

 くしゃりと優しく髪を撫でられて、ふとイーグルは目を開ける。

「そういえば、どうしてここに?」

 確かに発作の気配を感じて席を立ったのだが、悟られるほど顔に出ていただろうか。そんな疑問を見透かしたように、ジェオが軽く溜息をついた。

「別に不自然さはなかったぜ。ただ何となく違和感っつーか、嫌な予感がしただけだ」

 当たって欲しくはなかったけどな、と苦く笑って、もう一度柔らかな薄茶の髪を撫でる。
 今回は気付けたからまだいい。しかし自分が気付けていないところで、イーグルはどれだけこんなことを独りで耐えてきたのか、考えただけで胸が灼けつくような思いだった。
 何が副官だ。いつものように笑う彼を、疑うことなく前線に送り出して。
 一番肝心なところで、何も支えてやれていなかった。

「・・・お前の病気に気付けなかったのに、今更頼れっつったって説得力はないかもしれんが。頼むから、ひとりになるなよ」
「・・・ジェオ」
「こんなのはただのエゴだ、それは解ってる。俺は医者でも、魔法使いでもねぇ。お前にしてやれることだってたかが知れてる。それでも、」
「ジェオ、違います。僕は充分、貴方に助けられている」

 思わず体を起こしたイーグルを、ジェオは衝動的に抱き締めた。この温かな身体がそう遠からず冷たくなってしまうだろう現実から、どうすれば彼を守れるだろう。何を差し出せば助けられる?
 もしもそれが叶うのなら、この命だって要らないのに。

 どうしてお前なんだ。
 どうして、どうして、どうして。

(畜生・・・・っ)

 鼻の奥がツンとする。目頭にこみ上げてくる熱を、きつく目を閉じて堪えた。泣きたいのは、辛いのはイーグルだと自分に言い聞かせて。

 ジェオの大きな身体が小さく震えているのを感じて、イーグルはその背中に手を回した。広く大きな、逞しい背中。イーグルの腕で抱えるには足りないほどに。
 この背中に、胸に、腕に、いつも守られてきた。彼が無償で差し出してくれる信頼と愛情に、間違いなく救われてきたのだ。
 イーグルが何を選んでも、傍にいてくれた。お前についていくと笑ってくれた。
 その信頼を裏切るような真似をしたのは自分の方なのに、ジェオはイーグルではなく自身を責めている。気付けなかったと悔やんでいる。

「・・・泣かないでください」
「泣いてねぇ」

 そう言ったそばからズッ、と鼻をすする音がして、イーグルは思わず笑ってしまった。くそ、と小さな声が聞こえ、自分を抱き締めている腕に力が篭もる。
 くすくすと笑いながら、ねぇジェオ、と囁くようにイーグルが口を開いた。

「貴方がいるから、僕は生きていられるんですよ」
「・・・」
「努力はします。だから、もう少しだけ我儘に付き合ってくれませんか」
「・・・これ以上お前の我儘なんか聞いてたら、俺が先に胃痛で死ぬぞ」
「それは困りますね。ジェオがいなくなったら、誰が僕の面倒を見るんですか」
「24にもなってその台詞はどうなんだ?」
「ジェオが僕をこんな我儘にしたんでしょう?責任取ってください」
「よーしこの野郎、取ってやるからお前も責任持って俺に全うさせろよ」

 とりあえず寝ろ、と身体を離して、再びイーグルをベッドに横にさせると、彼はいたずらっぽい笑みを浮かべてジェオを見上げてきた。

「添い寝はしてくれないんですか?」
「阿呆、それじゃ狭くて休めねぇだろうが」
「そんなことないですよ。ジェオとくっついている方が安心して休めます」

 イーグルの言葉に、ジェオはガシガシと頭を掻きながら溜息をつく。
 わかったわかった、と徐にベッドサイドに備え付けられている通信機に手を伸ばすと、艦橋のザズに「何かあるまで自由待機」と伝えて通信を切った。
 ベッドの傍らに椅子を引っ張ってきて腰掛ける。あくまで添い寝はしてくれないらしい。

「ここにいてやるから、ゆっくり休め」
「・・・じゃあ、手を」

 もぞ、と毛布から手を出すと、苦笑しながらも優しく握り返してくれる。

「おやすみのキスは?」
「お前はどうしてそう、どうでもいい時だけ甘えたなんだ」
「甘えろってジェオが言ったんじゃないですか」
「頼れっつったんだよ。・・・ったく」

 呆れた風を装いつつ、しかし隠しきれない慈愛が滲む瞳が覆い被さるようにイーグルの顔に近づき、優しく唇が触れた。
 離れかけた唇を名残惜しげに視線で追うと、ふっと笑ったジェオがもう一度接吻をくれる。
 今度こそ唇が離れ、子供をあやすようにぽんぽんと優しく頭を撫でられた。

「おやすみ」
「・・・はい。おやすみなさい」

 ぎゅ、と握った手に力をこめて、イーグルは微笑んで目を閉じる。
 ほどなくして寝息に変わった呼吸に安堵しながら、ジェオは手を握ったまま、そのあどけない寝顔を彼が目覚めるまで見詰めていた。