薄暗い寝室に、重たい咳の音だけが響いている。
畳みかけのマントの端がベッドの縁から垂れ下がり、イーグルが咳き込む度、その振動でマントの先端を飾る金属が不規則に床を鳴らした。
ベッドに凭れるように座り込み、口を押さえて咳き込み続けている彼の膝元には、小さな血溜まりが出来ている。
「───っげほ、ごほごほっ・・・!」
一向に治まる気配のない発作、しかし誰かに助けを求めるわけにもいかないイーグルには、ひたすら耐えるしか為す術がない。
彼の副官がこの場にいたなら、少なくともその身を抱き寄せ、辛抱強く背中をさすってくれたことだろうが、残念ながらそれは叶わない、願う資格すらない夢だ。
(・・・ジェオ・・・)
それでも、どうしてもあの手の温かさを想ってしまう。
あの手が、あの声が、あの温もりがここにあってくれたらと、願ってしまう。何も言わず優しさに背を向けたのは自分なのに。
「っ、ぐ───」
肺の奥から痛みと共に熱が込み上げる。ぬめる掌と、口中に広がる鉄錆の匂い。
何度吐いても血の味には慣れなかった。
余韻のような咳が零れる。
何度目かの喀血に、ようやく嵐は過ぎ去る兆しを見せ、口を押さえていた手が力なく床に落ちた。
(艦橋でなくて、よかった・・・)
霞み始めた意識の端でそんなことを思う。
ここ最近目に見えて発作の数が増えてきた。どうやらまだ死神に追いつかれてはいないらしいが、医者の見立てによれば既に死んでいてもおかしくない筈なので、当然といえば当然かもしれない。
代わりに幸運の女神でも付いているのか、奇跡的に誰にも気付かれずに済んでいる。
(・・・幸運の女神、なんてものが付いているなら、そもそもこんなことにはなってないでしょうけどね)
思わず自嘲の笑みが漏れる。
呼吸が落ち着いてきて、イーグルは疲労が誘う眠気に抗って重い目蓋を持ち上げた。
このまま意識を手放したいのはやまやまだが、とりあえず口を濯いで、血で汚れた手と床を何とかしなければ。
幸いと言うべきか、休憩で部屋に戻るなりの発作だった為、艦橋に戻るべき時間まではまだ数時間ある。それだけ休めれば充分だろう。
イーグルはふらふらと立ち上がり一通りを片付けると、倒れ込むようにベッドに突っ伏して、今度こそ眠気に身を委ねた。
***
『苦しいのなら、やめてしまえばいい』
闇の中で、低く、深く、どこか甘い声が響いてくる。それは愛しい人の声にも、これから相対しなければならないだろう友人の声にも似ていた。
もしジェオが真実を知ったならきっとそう言うだろう。
そんなに苦しみながら走り続ける必要なんかない、だから少しでも長く生きてくれ、と願ってくれるのだろう。
しかしイーグルはいつも静かに首を振る。
なぜだ、と声が問う。
古びた映画館のスクリーンのように、少しノイズ混じりに目の前に投影されるのはまだそう遠くはない過去、幸せだった日常のひとかけら。
ジェオと、ザズと、ランティスと。
太陽光も植物も、殆どが人工的に再現されたオートザムで、けれどそれらは確かな暖かさをもって彼等の日々を彩っていた。
テーブルを囲って談笑している自分達を、イーグルは黙って見つめている。
これは夢だ。
いつからか・・・いや、セフィーロへの侵攻が決まった日だ。あの日、あの夜から、過去の夢しか見なくなった。
それが現実から逃げ出したいという深層意識の表れなのか、もう自分の未来が思い描けないからなのか、他の何かなのかはイーグル自身にも解らない。
皮肉なほど綺麗な想い出と、やめてもいいと優しく囁く声が、何度もイーグルを窘める。昏く温かな闇へ手を引こうとする。
それでも、そう出来たらどんなに楽だろうかと心の隅で思いながら、イーグルは毎回その誘惑を否定する。
それは出来ないと首を振る。
「例え明日終わるとしても、今日が無意味だということにはなりません。いえ、終わるからこそ、意味のあるものにする為に」
真っ直ぐに答える声は凛としてよく通り、そこには翳りも諦観もなかった。
死ぬことは怖くはない。
悲しくない、寂しくないと言えば嘘になるが、それはイーグルが独りではないことの証だ。愛してくれる人達がいるからこその感情だ。
だからどうかその人達に、哀しみ以外のものも遺せるように。
立ち止まるわけには、いかない。
それを確認する為に、こんな夢を見ているのかもしれない。
そんなことを思いながら、イーグルは微笑んで目を閉じる。思い出の中の自分達は、まだ幸せそうに笑っていた。
***
見慣れた無機質な天井が、自分を見下ろしている。
2、3度瞬き、イーグルは現状を思い出そうとぼんやりと頭を巡らせた。そういえばアラームをかけ忘れたな、と思って時計を見ると、休憩終了まで40分ほどの時刻を示していた。尤も、時間を過ぎていればジェオが叩き起こしに来ているだろうけれど。
ゆっくりと上体を起こしてみると、倦怠感は残っているが、気分はそう悪くはなかった。
大丈夫そうだと安堵の息をついて、イーグルは徐にベッド脇の収納に手を伸ばすと、掌に収まるほどのケースを取り出し、中の錠剤をひとつ、口に放り込んだ。発作を抑えるだけのもので、それももう気休め程度の効果しか期待できなかったが、何もしないよりはマシだろう。お守りみたいなものだ。
「さて」
ひとりごちて、イーグルはベッドを降りた。畳みかけたままになっていたマントを持ち上げ、血が付いていないことを確認してからそれを羽織る。ヘッドセットを着ければいつもの装備だ。
一応鏡で自分の姿をチェックすると、イーグルは艦橋へ戻るべく寝室を後にした。過保護気味な副官に「休憩時間中は休憩してろ」と追い返される可能性も頭を過ぎったが、それならそれでお茶の一つもねだってやろう。きっと呆れた顔をしながら、なんやかんや手製のお茶菓子まで出してくれるに違いない。ジェオはイーグルに甘いのだ。
艦橋へ続くエレベーターの扉が開くと、気付いたジェオが「おや?」という顔を向けてくる。
「早くねぇか?まだ時間残ってるだろ」
「ええ、でももうやることもなくて、暇だったので」
「暇だったので、じゃねぇよ。休憩なんだから休憩してろ」
予想通りの反応が返ってきて、イーグルは思わず笑ってしまった。
「じゃあ、お茶でも淹れてくれませんか。ミルクをたっぷり入れた甘いのを」
用意していたおねだりの言葉を告げれば、これまた予想通りに少し呆れた表情を浮かべたジェオが「しょうがねぇなぁ」と立ち上がる。
「っつーかお前、ちゃんと飯食ってきたんだろうな?」
「・・・あ。」
「あ、じゃねぇだろ!何で忘れられるんだよ飯を!」
「いひゃいれふ、いぇお」
両頬を大きな手でむにっと挟まれて、イーグルから情けない声が上がる。
柔らかな頬の感触に浸りながら、こいつこれでうちの最強ファイターなんだよな・・・としみじみと考えてしまうジェオだった。
「ったく。何か軽く作ってやるから、急いで食えよ」
「はい」
解放された頬をさすりながら、嬉しそうにイーグルが笑う。数時間前、どうしようもない苦しみの中で焦がれていた手が、いま優しく自分の髪を撫でている。
まだ自分は彼と同じ世界に生きている。だから大丈夫だ。
間もなく非日常に飲み込まれる穏やかな時間を背に、二人は並んで艦橋を出て行った。