それは一度きりの

「イーグル、もうやめとけ」
「んん・・・」

 軍人にしては白く、細長い指が琥珀色の瓶に伸ばされるのを、ジェオはやんわりと止めながら、素早く封の切られていない酒瓶を取り上げた。
 あ、と小さく声が上がったが聞こえなかったことにする。
 ジェオの部屋、リビングに置かれた四人掛けのソファに並んで座っていた二人の距離は肩が触れ合うほどに近かったが、イーグルはむぅ、と僅かに不満そうな瞳で酒瓶を追った後、おもむろに立ち上がってジェオの足の間にちょこんと座り直した。そのままジェオを背もたれ代わりにでもするように、遠慮なく体重を預ける。
 ぽふん、ぽふんと、まるで抗議でもするかのように小さく上体を前後に揺らして、その度に柔らかな薄茶の髪が、ジェオの目の前でふわふわと揺れた。

「・・・酔ってるだろ」
「よってません。もうちょっとのみたかったのに、ジェオのけち・・・」

 既に若干ろれつが怪しい。酔ってるじゃねぇか、と内心呆れながら、同時に珍しいな、とも思う。
 どちらかの部屋で夕食を摂る。それ自体はよくあることで、ザズが加わることもあれば、たまに酒を飲むのもまぁあることだ。ジェオは全く飲めないので、専らソフトドリンクだが。
 イーグルはザズほど酒に強いわけではないが、弱いわけでもなく、基本的に我を失うほど飲むこともない。多少ふわふわと楽しそうになったりはしても、見るからに酔っ払っている、という姿は殆ど見たことがなかった。

(今日はやけにペースが早かったな)

 ジェオは内心でひとりごちたが、その理由は察しがついていた。
 つい二日前、イーグルはセフィーロ侵攻作戦の司令官という任を受けたのだ。
 ジェオがそのことを知ったのは昨日、同じく副司令官としてセフィーロへ行ってくれないかと上官から告げられた。
 上官───つまりイーグルから。

『断ってくれても構いません』

 そう前置きして、彼は話を切り出した。心なしか顔色が悪く見えたのは気のせいではなかった筈だ。
 セフィーロ侵攻───その可能性を考えていなかったわけではないだろう。彼の国の柱が消滅した、と解った瞬間から、心の何処かで覚悟していたに違いない。
 ジェオでさえ薄々予感はしていたのだから。
 しかし、可能性を覚悟していたからといって、全く葛藤せずにいられるかは別の話なのだ。

「けち、じゃねぇよ。いくら明日が休みでも、一日頭痛と戦って終わりたくねぇだろ?」

 宥めるように目の前の身体を軽く抱きしめ、腹の辺りを優しく叩く。ふふ、とイーグルが笑った。

「・・・ジェオは、いつもあたたかいですね」

 そう呟くと完全に身体を弛緩させ、ジェオの胸に背中を預けてくる。いつもより体温が高い。

「お前もあったかいぞ。眠いんだろ」
「んー・・・ふわふわ、はしてます」

 イーグルがまた笑いながらもぞもぞと動いたと思うと、身体を半分ねじり、ジェオの胸に右耳を押し付けるようにして顔を埋めた。
 両手がしがみつくように背中に回される。

「ふふ、ジェオのにおいがする・・・」

 半分夢見心地のようなトーンの、気の抜けた声が耳に届く。これはこのまま寝落ちるな、と思ったが、ジェオは特に何も言わず好きにさせてやった。何となく愛おしくなって、自分よりはだいぶ薄いその背中を撫でる。
 重なった体が温かくて、ジェオまで眠くなりそうだった。

(あたたかい・・・・・)

 イーグルは酔ったとき特有のふわふわとした感覚の中で、ジェオの心臓の音を聞いていた。
 とくん、とくん。
 規則正しく響く、彼の命の音。生きている証。
 この優しい腕も、温かな胸も、愛おしい音も、全てが自分のものだとジェオは言ってくれたのに。
 自分はその全てを遠ざけて、ひとりこの身に巣食うものと戦わなければならない。そうすると自分で決めたのだ。
 決めた、筈だ。

 もぞり、とイーグルの頭が動く。ジェオの胸に正面から顔を埋めて、ぎゅう、と一際強くしがみついた。

「ん?どうした?」

 どこまでも優しい声が頭上から落ちてくる。
 何もかも話してしまえたら、どんなに楽になれるかと思わないではなかったけれど。
 この温かさに触れると、どうしてもそんな衝動が心の奥で頭をもたげた。
 軍人になると決めた時、死なんてとうに覚悟していたつもりだったのに。
 いつ死んでもおかしくないような仕事に就いておきながら、それでももっと、ずっと一緒に生きていけると思っていた。

(・・・・・・しにたく、ない・・・)

「イーグル?何か言ったか?」

 小さな、声にすらならないような小さな言葉は、温かな胸に吸い込まれて、ジェオの耳に届くことはなかった。

 それはたった一度きり、最初で最後の、彼の────