オベリスク

ギムレットには早すぎる』からの『逆光』からのその後みたいな。

人も獣も寝静まり、星のざわめきさえ聞こえてきそうな静寂が支配する夜。
微睡むような月の光を受けて淡く輝くセフィーロ城は、どこか神聖さを纏って大地に佇んでいた。
その周囲を覆うように群生する草花は時折吹き抜ける風に揺れ、巻き上げられた花弁がいくつか、城の中庭に音もなく舞い込んでゆく。
そんな静かな城の一角にある部屋へと続く長い回廊を、ジェオは一人、足音を殺しながら歩いていた。すっかり月が高く昇った空をなんとはなしに見上げれば、白い花弁がひらひらと視界を舞う。自然の花など縁のない国に生まれ育ったジェオの目には、月光の中で風に踊るそれは酷く幻想的な光景に映った。思わず足を止め見入ってしまいそうになる自分にハッとして、歩みを早める。

祖国の―――オートザム時間で言えば今は深夜2時。もう誰もが眠りに就いているだろう時間だ。
(すっかり遅くなっちまったな)
訪ねようとしている部屋の主も、恐らくもう夢の中にいることだろう。ジェオも特に起こすつもりはなかった。話は明日にでもゆっくりするつもりでいるので、今夜は顔が見られればそれでいい。

異世界での一連の戦いを終え、こちらの世界へ帰還する途中で倒れたイーグルがこのセフィーロで療養に入ってから、およそ一ヵ月。
最初に彼が目を覚ますまでは傍につきっきりだったジェオも、流石に司令官代理としてオートザムへの報告や侵攻作戦の事後処理をいつまでも先延ばしにしておくわけにもいかず、イーグルを残してNSXは一旦帰国の途についた。
諸々の雑務を最速で片付け、あれこれと理由を付けて単身この地に戻ったのがつい先程。昼間のうちにセフィーロ側に入れた通信で、導師クレフから「何時になろうと気にせず入城して構わない。挨拶は明日ゆっくり聞こう」との言葉を貰っていたので、ジェオはありがたく、真っ直ぐにイーグルの部屋へと向かったのだった。

目的の部屋の扉の前まで辿り着く。月光を青白く反射する豪奢なドアノブにそっと手を掛けたところで、ジェオは中から聞こえてくる音に気付いて血の気が引いた。
「イーグル!」
思わず声を上げ、勢いよく扉を開く。
規則的に立ち並ぶ柱に囲まれた円形の部屋。射し込む夜の光が濃い影を落とす、中央に誂えられた寝台の上で、イーグルが身体を丸め苦しそうに咳き込んでいた。
「イーグル!しっかりしろ、大丈夫か?!」
大丈夫なわけはない。それでも他に掛ける言葉が見つからなかった。己の無力さに内心歯噛みしながら、ジェオはその薄い背中を必死にさする。
「ゲホッ、ゴホゴホッ・・・ぅ、ぐっ―――」
ごぼっ、と水音の混じった咳と共に、口を押さえていた指の隙間から赤黒いものが溢れる。
余韻のような咳に骨ばった肩が揺れ、時折ヒュウヒュウと風の抜けるような音がイーグルの喉を鳴らした。
回復に向かっているとはいえ、発作が起こらないわけではない。解っていても動揺も不安も抑えられなかった。ゆっくりと背中をさすっていると、幾分落ち着いてきた呼吸に、きつく閉じていたイーグルの目蓋がゆるゆると持ち上げられる。
潤んだ琥珀色の瞳が僅かにさまよい、ジェオを見上げた。
「―――・・・・・・ジェオ・・・?」
掠れた声。その拍子にまた小さく咳き込むイーグルに、ジェオは背中をさする手はそのまま、もう片方の手を撫でるようにそっとその頭に置いた。
「喋んなくていい」
囁くように短く告げれば、イーグルはジェオをもう一度見上げ、微かに微笑んで目を閉じる。大きな温かい掌が背を撫でてくれる度、痛みが和らいでいくような気がした。

お互いに沈黙のまま暫くそうしていると、不意にジェオの手が離れた。
「ちょっと待っててくれ、水とタオルを持ってくる」
イーグルの呼吸が落ち着くのを待っていたのだろう。気遣うような声でそう言うと、ジェオは静かに寝台を離れ、少し濡らして絞ったタオルと水を手に戻ってきた。
「起こしても平気か?」
月明かりしかない中でもわかる、心配そうな顔で覗き込む男に、イーグルは笑んで小さく頷く。背中に差し入れられた手にゆっくりと抱き起こされ、差し出された水を一口含めば、咳で酷使した喉をひんやりとした感覚が通り抜けていく。心地よさに息をついたイーグルにジェオは安堵の表情を浮かべると、タオルで軽く口元を拭ってやってからそれを手渡した。
「ありがとう、ごさいます」
血で汚れた手を拭い、先程よりはましになった声で礼を言うと、ジェオは「おう」と控えめに笑ってタオルを取り上げ、再びイーグルを横にさせてから傍らの椅子に腰掛ける。
「・・・いつ、セフィーロ(こちら)に?」
「ついさっきだ。顔だけ見ようと思ったんだが・・・来てよかったぜ」
言いながら、柔らかな前髪を掻き分けるように太い指が額を撫でる。熱はないな、と呟く声に、イーグルは心地よさそうに目を閉じた。
「僕も、一瞬夢かと思いました・・・、っ」
「イーグル?」
落ち着いたかと思いきや再び軽く咳き込み始めたイーグルに、また発作かとジェオは思わず立ち上がる。
「イーグル!待ってろ、いま導師を呼んで―――」
こんな深夜に申し訳ないとは思うが、一度診てもらったほうがいいだろう。そう判断して、入り口のほうへ身を返しかけたジェオの腕を白く細い指が掴んだ。
「イーグル」
「大、丈夫、ですから・・・」
「でも」
「発作じゃ、ないんです。夜は・・・咳が、出やすくて」
確かに発作の時とは咳の感じが違う、ような気がする。乾いた咳を零しながら大丈夫だと繰り返すイーグルにジェオは僅かに逡巡し、とりあえず椅子に座り直した。
「わかった、無理に喋るな。水は?飲むか?」
背中を撫でてやりながら聞けば小さく頷いたので、ジェオは再びイーグルを抱き起こし、先程の飲みかけのグラスを差し出した。白い喉がこくりと嚥下に動く。
「・・・咳が出やすいって、毎晩か?」
不意に投げられた問いに、え、と取り繕い損ねた琥珀の双眸が一瞬揺れる。それを肯定と受け取ったジェオの表情が痛ましげに歪んだ。
「いえ、でも、発作になるようなものではないんですよ。今日はたまたま・・・」
「だとしても、毎晩そんな咳じゃろくに眠れねぇだろ。ああクソ、やっぱり帰国なんかしてる場合じゃなかった」
「・・・ジェオ」
強い後悔の滲む声で、睨むように床に視線を落としたジェオに、イーグルは次の言葉を見つけられない。
目覚めてからこっち、確実に身体が回復に向かっていることはイーグルが誰よりも実感として理解している。本当に治るのだと素直に信じられる程度には、灼けつくような胸苦しさも、常に重く纏わりついていた倦怠感も日に日に薄れ、時折起きる発作も吐く血の量は目に見えて減っていた。
だから、眠れないほど夜間に酷くなる咳も一番辛かった時期に比べれば大したことはないと、時間と共に和らいでいくのだろうと誰にも言わずにいたのだけれど。

こほ、っ
堪えきれず、また一つ咳が零れる。乾いたそれは特に苦痛を伴うものではなかったが、肩を抱くジェオの手の力が俄に増したので、イーグルは困ったように笑った。
「本当に大丈夫ですよ。喉が乾いて張り付いたような感じというか・・・特に苦しくはないですし、少しずつ回復しているのは実感していますから。これも、そのうち治まります」
だから心配はいらないと言外に告げるイーグルに、ジェオは少しの間その顔を見つめると、何かを呑み込むように目を閉じ、一つ溜息を吐いた。
「・・・わかった。けど、それはそれとして、だ」
ジェオは支えていた身体を横向きに横たえると、疑問符を浮かべて見上げてくるイーグルの頭をぽんぽんと軽く叩き、寝台の端に腰掛け直す。そうしてまたゆっくりと背中を撫で始めた。
「・・・ジェオ?」
「このほうが少しは楽だろ。そのうち治まるから大丈夫だって、お前は本気で言ってるんだろうし事実その通りなんだろうが、”それならいいか”って俺が放っておけると思ったか?」
心外だとでも言いたげな表情で見下ろす新緑の瞳に、イーグルが軽く瞠目する。
「こんなのは俺の自己満足だけどよ。でも、なぁ、イーグル。眠れない夜に一人でいるのは長いだろ。俺にはお前を治すことも、代わってやることも出来ねえけど、こうやって背中をさするくらいは出来るんだぜ?」
「・・・ジェオ・・・」
それに、と温かな掌が頬を撫でた。
「これでも世話役なんだ、少しは世話をさせてくれ」
「・・・これ以上、ですか? 」
もう随分と我儘を言って困らせてきた気がするけれど。
ふふ、と思わず笑ったイーグルに、ジェオもつられて「まだまだ」と笑う。
「甘やかされすぎて、溶けちゃいそうですね」
「そりゃ困るな。溶けきる前に元気になってくれ 」
そう優しく耳を打つ心地のいい声と、規則的に背中を行き来する掌の熱に、イーグルの目がとろんと重くなっていく。
「ジェオ・・・」
「ん」
「明日も、こうしていてくれますか」
「毎日でも」
「じゃあ、溶けないように、ぼくも、がんばりますね・・・」
最後のほうは殆ど聞き取れないほど小さくなった声で微笑みながら呟くと、イーグルはそのまま眠りに落ちた。安心しきったような表情のその頬に、ジェオはそっと唇を落とす。
空が朝焼けの色へと変わり鳥達が囀り始めても、その寝顔は穏やかなままだった。

●END●