『湯たんぽ』の続き。
どこかで甘い香りがする。
水底に沈んでいた意識が導かれるようにゆっくりと浮上するのを感じて、イーグルはふと目を開けた。緩慢に二度、三度と瞬けば、視線の先には自分の部屋ではない―――しかし見慣れた天井がある。もぞりと頭を右に向ければ、やはり見慣れた扉があった。
(・・・ああ、)
寝起きで薄く靄がかかっていた思考が次第にクリアになり、イーグルは事の経過を思い出した。いつものようにジェオの部屋で小休憩を取りつつ、今後の動きについて打ち合わせている時に発作を起こしたのだ。そんなに酷いものではなかったが、過保護気味な副官は有無を言わさずイーグルをベッドに押し込んだ。
心配をかけるのは本意ではなかったけれど、それならば無理に平生を装うよりは幾分かその心配に応えられるだろうと、大人しくベッドに収まったのだった。
―――この病を隠し通せると思っていたわけではない。そもそもセフィーロに辿り着くまで生きていられるかすら、分の悪い賭けだったのだから。
それでも一人で立っていなければ、この苦しみを外に、彼に預けてしまったら、もう進めなくなると思っていた。走り続けなければ、立ち止まったら暗く冷たい手に絡め取られてしまう。地の底に引きずり込まれてしまう。
そう自分に言い聞かせてきたけれど。
(・・・不思議ですね。ジェオに知られた今のほうが、まだずっと走っていける気がする)
眠る前に手を握ってくれていた、あの温かさを想う。毛布に包まったまま寝返りを打ち、思いきり息を吸い込めば、ジェオの匂いが全身を満たした。
一人で立っていなければ、と。
その思いは今も変わらない。この胸に冷たく巣食う病も、すぐそこに迫る死もイーグルだけのものだ。イーグル自身が戦うしかないものだ。
けれど。
独り、ではない。
冷えた身体に熱を分け与えてくれる手が、朝へと連れ出してくれる声が、暗闇に明かりを灯してくれる存在が、いつでも傍にある。
遍く時代、数多の人々が標としてきた、北の空に輝く一等星のように。
不意に、軽い音を立ててドアが開いた。
「イーグル、そろそろ起き・・・」
ぱちりと目が合う。思わず言葉を途切れさせたジェオに、イーグルは「おはようございます」と笑顔を向けた。
「起きてたのか。身体は大丈夫か?」
「はい。甘い匂いで目が覚めました」
不調で目覚めたわけではないと言外に伝えれば、ジェオはほっとしたように「そうか」と笑い、いつものようにイーグルの髪をくしゃりと撫でた。
「ご要望のタルトが焼き上がっております。どうぞご起床を、司令官」
恭しく告げる男にイーグルも笑う。
「・・・おはようのキスを忘れているようですが、メトロ少佐?」
戯れに合わせて言葉を返せば、ジェオは一瞬呆けた顔をしてから盛大に噴き出した。
「ぶっ、ははは!失礼いたしました、ご寛恕を」
笑い含んだまま言って、ジェオは身を屈める。ちゅ、と控えめに触れる唇を、その頭ごとイーグルが抱き込んで深く口づけた。
「・・・ん、んぅ」
絡む舌から伝う唾液をこくりと飲み込んで、もっと、と言うように離れようとする舌を追い掛ける。ジェオはその動きに応えながら、そっと頬に手を添えると、キスの合間に制止の意を込めて名前を呼んだ。
「こら、タルト食うんだろ?」
「ん、はい・・・食べたいです」
渋々と口を離したイーグルを、ジェオは手慣れた動きで抱き起こしてやる。もぞもぞとベッドを降りるイーグルに、いい子だ、とおまけのキスを贈れば、琥珀の双眸が嬉しそうにふにゃりと笑った。
●fin●
ジェオの階級は捏造です。イーグルは大佐くらいがいい。何故なら「ビジョン大佐」って響きが妙に好きだから。←