宥めるように、或いは幼子を寝かしつけるかのように額の辺りを撫でていた手が不意に離れる。その熱を追うように思わず目を開けると、ベッドに横たわる自分をすぐ傍で見下ろしていた明るい新緑の瞳が「こら」と小さく笑った。再び大きな手が伸びてきて、ぽんぽんと優しく髪を撫でる。
「そんな顔しなくても、どこにも行かねぇよ」
言われて自分はどんな顔をしているのだろうと思う。これではまるで本当に幼子だ。
安心して寝ろ、と頭に置かれた手はそのままに、ジェオは今度は空いているもう片方の、やはり大きな手でイーグルの右手を握った。
「・・・冷えてんなぁ」
誰にともなく呟きが落ちる。ジェオは両手でイーグルの手を包み込んだ。喀血だろうと身体から血液が失われていることに変わりはないのだ、貧血気味にもなるだろう。彼が発作を起こす度、血と一緒に失われていくものを想って無意識に力が籠もった。
「ジェオと合わせると丁度いいでしょう?」
そう悪戯っぽく笑うイーグルの顔色はまだ白い。
「俺は湯たんぽか」
呆れたふうを装って軽口を返すジェオの、しかし熱を移すように手の甲をさするその動きは労りと祈りに満ちている。イーグルは笑みを深めて言った。
「随分万能な湯たんぽですねぇ」
くすくすと笑う様はいつものイーグルだ。その胸の内を粘菌のように黒い影が巣食っているなど、血を吐く姿を見ていなければ信じられないほどに。
白く冷えた手がジェオの体温と混ざり合っていく。
足りない熱を補うように、この命も分けてやれたらいいのに。いっそ全部だって構わない。
ここが魔法の、意志の力が全てを動かす世界だと言うのなら。
世界の全てをどうこうなんて大それた力は望まないから、ただどうかたった一人、たったひとり、このひとだけは。
「・・・ジェオ?」
怒っちゃいました?
窺うように見上げてくる琥珀の瞳に、重ねた手を見つめたまま詮無い思考に耽っていたジェオはハッとして顔を上げた。なんでもねぇ、と笑ってイーグルの髪をくしゃりと撫でる。
「俺はお前のもんだからな。湯たんぽでも専属パティシエでも目覚まし時計でも、何でもいいさ」
「湯たんぽは冗談ですよ、ジェオは」
「わかってる」
言いかけた言葉を遮って、ちゅっと軽い音がイーグルの額で鳴った。そのまま目蓋、頬へと降りてきた唇が、最後にイーグルのそれに優しく触れる。
「もう寝ろ。3時間後の艦長ミーティングに青い顔で出たくねぇだろ?」
「照明を落とせば誤魔化せないですかね」
「おい」
「冗談です」
お前なぁ、とベッドに乗り出しかけた身を椅子に引き戻しながら、ジェオは脱力したように肩を落とす。
「でも、少し早めに起こしてもらえませんか。ミーティングの前にお茶が飲みたいです」
ついでにお茶菓子も。
自分で起きる気は端から無いらしい上官の言葉に、ジェオは呆れを通り越して噴き出した。いつもの、オートザムにいた頃から変わらない光景。ジェオが単独任務などでいない時はちゃんと自分で起きるくせに、いるとこれだ。すっかり甘えたに育ててしまった。
そんなことを思いながら、しょうがねぇなぁ、とぼやく声にも心底愛おしそうな色が滲んでしまうのだから我ながらどうしようもない。恋愛は惚れたほうが負けとはよく言ったものだ。
ジェオに勝ち目はない。最初から、最後まで。
「お前、万能湯たんぽに感謝しろよ。何が食いたいんだ?」
少なくとも2時間はある、今から取り掛かれば間に合うだろう。
言外の意味を察したイーグルが嬉しそうに笑う。
本当は添い寝でもして欲しいところだけれど、いくらジェオが万能湯たんぽでも添い寝とお菓子作りは並行できない。
お気に入りのレシピを告げて、大人しく目を閉じた。
優しいお茶の香りと甘い焼き菓子の匂いで目を覚ますことを、楽しみにして。
●fin●