すっかり月が昇った星空の下、動物達も息を潜め、木々のざわめきさえ聞こえない静かな夜。
セフィーロ城の一室ーーーイーグルが療養の為にと与えられた部屋で、少し落とされた照明の中、二つの人影がテーブルを挟んで向かい合っていた。
イーグルほどの身長でも背中まですっぽりと収まる卵型のソファは、どういう原理でか床面から僅かに浮いている。目の前に並べられた酒瓶や肴が乗った丸テーブルも同様だ。
何故椅子やテーブルが浮いている必要があるんだろう。床の掃除がしやすい、とかだろうか?
そんなことをぼんやり考える程度には、イーグル・ビジョンは酔っていた。柔らかな橙色の照明が照らし出す端正な顔立ちからは、そんな気配は欠片も感じ取れなかったが。
カラン、と涼やかな音を控え目に響かせて、イーグルは何杯目かもわからない手の中のグラスを傾ける。
その向かい側で、同じく卵型のソファに身を沈めていたフェリオもつられるように持っていたグラスを煽った。
***
「よぉイーグル。たまには俺と飲まないか?」
持参した酒瓶とグラスを軽く掲げながら、フェリオが部屋を訪ねてきたのは2時間ほど前のことだ。
二度と覚めない筈だった眠りから目を覚ましたイーグルは、しかし目覚めてしまえば時折訪れる強烈な眠気以外は存外元気なもので。
長期間眠っていたせいで筋力は多少落ちているし、まだ以前のように動き回ることは出来ないが、元々特定の内臓に由来する病ではなかったからか、食事に関しては特に制限の必要はないだろう、というのが医師と導師クレフとで見解の一致するところだった。つまり、飲酒も。
突然といえば突然の王子の来訪と酒の誘いにイーグルは一瞬面食らったものの、目覚めてからこっち、それなりに交流を重ねてきた相手ではある。一緒に飲んだことはまだなかったが、そういえば”普通に”飲める相手というのは久しぶりかもしれない、と思った。
ジェオは全く飲めないし、ザズはうわばみ、ランティスは・・・まぁ嗜む量としては普通なのだろうが、別の意味で論外だ。
考えるほどにセフィーロの酒がどんな味かも興味が湧いてきて、イーグルは二つ返事でフェリオの提案を受け入れたのだった。
***
「・・・ジェオから”強い”とは聞いてたが、本当に強いんだな。これだけ飲んで顔色一つ変わらないのか」
感心半分、呆れ半分といった顔で、フェリオはイーグルが空にした酒瓶を見遣った。そう言う本人も飲む前に「俺も結構強いんだぜ」と言っていただけあって、多少顔は赤くなっているものの、呂律も視線もしっかりしている。
「自分の顔色は解りませんが、ちゃんと酔ってますよ。フェリオこそ随分飲んだのに、あまり変わらないように見えますが」
「あと3本はいけるぞ」
そう言って笑うと、フェリオがまだ中身の入った瓶を向けてきたので、イーグルは有り難く自分のグラスを差し出した。
「ーーーそれで、ジェオは貴方に何を言ったんですか?」
「え」
注がれた琥珀色の液体と似た色をした瞳が、ふとフェリオを捉える。その視線と言葉に思わず声と手が揺れると、彼が「正直な人ですねぇ」と笑うので、フェリオは図星を突かれた気恥しさを誤魔化すように頭を掻いた。
「いや、えーと・・・」
これまた誤魔化すように瓶を置いて、代わりに自分のグラスを取った。意味もなく視線を外へ泳がせる。吹き抜けになっているこの部屋は時折涼やかな夜風が通り過ぎ、心地よく頬を髪をと撫でていった。
「・・・あー、駄目だな。導師や、それこそお前ならそれとなく上手いこと聞けたんだろうが、俺はやっぱりそういうのは苦手だ」
開き直ったのか、フェリオはグラスをテーブルに置くと、真正面からイーグルに向き直る。つられてイーグルも何となく姿勢を正した。
「確かにジェオに相談はされた。でも別に何かを頼まれたってわけじゃないぜ。今日ここに来たのは俺の意思だ。ジェオやランティスには言い辛い悩みでも、俺ならどうかなと思って」
予想もしていなかった言葉に、イーグルは思わず瞠目する。普段ならそんな反応は見せなかっただろうその様に、なるほど酔っているというのは本当なのかもしれない、と頭の片隅でフェリオは思った。
イーグルが何かを悩んでいる気がする、とジェオは言った。
副官として、世話役として、何より親友・・・以上の関係のような気がフェリオはしているが、そこについてはまだ聞いていない。
とにかく、この世で一番イーグル・ビジョンという人間を理解しているだろう男がそう言うのだから、そうなのだろうとフェリオは素直に受け止めた。
今はまるで最初から親しい客人だったかのようにセフィーロ城で療養しているイーグルだが、彼の立場や取り巻く環境、セフィーロ侵攻という任務の中で彼が取った行動を考えれば、セフィーロ側としてはともかく、オートザムないし軍において非常に危うい立ち位置になっているだろうことは、軍が存在しない国で生まれ育ったフェリオにも想像はつく。
軍法会議は免れないだろう。これまでのイーグルの功績を考えれば銃殺刑までは流石にないだろうが、最悪軍籍剥奪も有り得る、とはやはりジェオの言葉だ。
現に今のイーグルは軍籍ではあるが、司令官という地位からは降ろされている、ただの一兵士だ。
まぁ、組織としてはいつ前線に戻れるかも解らない人間を、いつまでも責任者に据えておくわけにはいかない、というのもあるのだろうが。
ただ、恐らくイーグルが気にしているのはそういった方面のことではないと思う、ともジェオは言っていた。
「俺個人でも、セフィーロの王子としてでも、出来ることがあるなら力になるぜ?話すだけでも楽になることだってあるかもしれないし」
まだ僅かに幼さが残る顔立ちに、ニッと悪戯めいた笑みを乗せて言うフェリオの、しかし声音は真剣そのものだった。彼自身も友人として、イーグルを案じているのだという事を伝えるには充分すぎる程に。
だからこそ、その真摯な想いを笑顔で躱すことは躊躇われた。
イーグルは言葉を探すように目を閉じると、自嘲するように息を吐いた。
「王子として、なんて、そんな簡単に他国の人間の前で口にすると導師に叱られますよ」
せめてもの軽口を叩けば、王子は”そんなのは慣れてる”とカラカラと笑う。
その楽しげな声に少し心が解れたような気がして、或いは酒の力もあったかもしれない。気付けばイーグルは自分でも意外なほど、するりと心の内を明かしていた。
「・・・終わる、と思っていたんです。柱になってもなれなくても、僕の人生はあそこで終わる筈だった。だからあらゆるものを裏切れた。・・・踏み倒せると思っていたから、その負債と向き合う覚悟はしていなかった、と言えばいいでしょうか」
狡い話でしょう?と笑うその表情は、いつもの彼からすれば随分下手くそな笑みに見えた。
「・・・狡い、と言ったらそうかもしれないが」
つ、とテーブルに置いたグラスの縁をフェリオの指がなぞる。その微かな振動に、琥珀色の液体が波紋を描いた。
狡い、のだろうか。
突然突きつけられた死に、例えそれが多くのものを巻き込むとしても、せめて最後まで思うままに生ききろうとすることは。
不意に、ちくりと胸の奥が痛んだ。
何故、と思いかけてフェリオは一人得心する。
それは彼の姉が、最後の最後まで許されない罪だと己に言い聞かせ続けようとした想いと、同じなのではないか。
「・・・なるほど、確かに似てるな」
異世界の少女が言っていた言葉を思い出しながら、静かな笑みで独り言のように呟かれた言葉に、今度は琥珀の双眸が俄に揺れる。え?と零れた声にフェリオは視線を上げた。
「いや。そっちの軍の規律とかについては、俺は何も言えないけど・・・そんなに何もかも、一人で背負い込まなくてもいいんじゃないか?」
「・・・え、」
今日のイーグルはよく表情が変わるな、と内心少しの嬉しさを感じながら、フェリオは穏やかな笑みで続けた。
「全部イーグルが自分で決めてやったことだとしても、その後始末を望んで手伝いたいって奴が沢山いるだろ?頼ればいいじゃないか。謝れるのもやり直せるのも、生きてる人間の特権なんだぜ?」
最後はウィンクと共に告げれば、イーグルはハッとしたようにフェリオを見る。この聡い司令官はフェリオが言外に想った人達の面影を察したに違いない。こんなにも他人の感情には聡いのになぁ、と苦笑したくなる。
しかしエメロード姫がそうであったように、どんなに強い人間でも、自分の本当の心は見えないものなのかもしれない。或いは、あまりにも近いからこそ見失うのだろうか。
言葉を継げずにいるイーグルに、フェリオは氷が溶けて薄まった酒のグラスを持ち上げて「それに」と笑った。
「こういう時こそ頼ってやらなきゃ、ジェオが泣くぜ?」
そう言って一口、薄い酒で喉を湿らせる。冷えたそれが身体の内を滑り落ちていく感覚が心地良い。
そんなフェリオの前で、イーグルはどこか迷子のような表情で視線を落とした。
「そう・・・でしょうか」
「そうだろ。副官だ世話役だって、ずっとお前の一番傍にいたんだろ?なのに、こうなってもまだ悩みの一つも相談して貰えないなんて、俺がフウにされたら立ち直れないね」
少し冗談めかして言えば、ようやくイーグルにいつもの笑みが戻った。ふ、と吐息で笑う彼の癖。そんなものを知るくらいの時間は、いつの間にか共有してきた。
だからさ、と王子は続ける。
「もっとジェオをコキ使ってやるくらいが丁度いいと思うぞ。何でも出来るからって、何でもやらなきゃいけないってことはないだろ」
そう言ってから、ああそうか、とフェリオはひとりごちる。
「お前、なまじ何でも一人で出来ちまうから辛いんだな。俺なんか出来ない事のほうが多いから、いっそ諦めがつくんだが」
なにせ城にいた時間よりも外で剣を振っていた時間のほうが長いくらいだ。柱が消滅し、いよいよ王子としての立場に収まらなければならなくなった時は、正直言ってちょっと途方に暮れた。
それでも何とかやってこれたのは、クレフを始めとしたセフィーロの人々がフェリオを支えてくれたから。
イーグルはその逆なのだ。
「俺は自由気ままに生きてた所をいきなり王子なんて立場に引き戻されたからさ、当然国政なんて右も左も解らない。導師達がいなかったらとっくに逃げ出してるよ」
そう言って笑う王子が、しかしそうなれるまでにどれほどの努力と研鑽を重ねてきたのか、それこそイーグルには想像に難くない。
「・・・これ以上コキ使ったら、流石に愛想を尽かされそうな気がしますが」
「それは無いな。だってあいつ、お前の世話を焼くのが生き甲斐だろ?」
少なくとも俺にはそう見える。
大真面目にそう言われて、イーグルは今度こそ、珍しく声を上げて笑った。
なるほど、確かに酔ってるな。
心の内で思いながら、フェリオは自分のグラスに酒を注いだ。
夜は更けていく。